&風に吹かれてカシシエロ

ドラマのあれこれ。毎日のあれこれ。

HOPE ~期待ゼロの新入社員~清々しく胸を張れ

9月18日の日曜日、最終回を迎えた『HOPE~期待ゼロの新入社員~』。録画を3回見て3回泣いた作品である。

働く現場を描く作品は多いけど、なんだかな…の作品も意外に多い。そんなにおしゃれな雰囲気じゃないぞと思ってみたり、具体的な業界の内容があれあれだったり、取材してないなあと思ったり…といろいろあるわけで。

 

視聴者のチカラとなる。シンプルにドラマの使命をまっとうした『HOPE』

「働くドラマ」は、働く私たちにとって共通項が多いぶん共感もしやすい。その反面「そういうことじゃないでしょ」も生まれやすい。業界を掘り下げることはOKだが、職場の課題をヘタに盛るよりは、直球勝負の方がいいと思うのは私の持論。複雑な問題提議より、シンプルな情熱の方が胸にしみる。

まったく嫌な思いをしない職場、まったくストレスのない職場、そんな職場はどこにもない。
どんよりした日もあればカラッとした日もある。どんよりとカラッとが同時発生する日もある。自分のなかでせめぎ合うモヤモヤや情けなさや苛立ちを、さてどうすればいいんだろうと、泣きそうになりながら、踏ん張る術を手探りする毎日。踏ん張る術はドラマのなかにもあるもので、熱い何かに触れたら、即、涙腺崩壊なのだ。

 

奇跡は起こらない。でも清々しいのはなぜだろう。

最終回、奇跡は起こらなかった。でも、あんなに清々しい気持ちになれたのは、営業3課の、そして営業3課と真正面から向き合ってはたらくひとたちの想いが、まっすぐに伝わってきたからだと思う。

 この作品は新入社員だけのものではない。上司、ベテラン社員、ちょっと先輩、すべてのひとが丁寧にかつ生き生きと描かれていて魅力的だ。だから、どの世代が見ても心が動くし、誰が見ても清々しい。

 

遠藤憲一に涙する。

とにかく、遠藤憲一である。

 『民王』でのコミカルかつ信念、「ここぞ」というときの力強いリーダーシップ、そして人間力懐の深さ、魅せる演技の実力をわかっているつもりでいたけど、それでも泣いた。やられっぱなしである。

寝静まった子どもたちを横に極力電気を抑えたわが家でちびちび、ビールを飲む横顔。

愛だよなあと思う。へぺれけになりながらタクシーをひろう姿、愛だよなあと思う。

最終回、努めて笑顔でいようとしながら、主人公の中島裕翔演じる一ノ瀬歩に、振り向きざま「踏ん張れよ」と全身で声をあげたあのシーン、全身全霊のあの一言、忘れないと思う。想いだすたびに、涙がこぼれるんだろうと思う。

 

世のなかは理不尽だ。そんなこと、みんな知っている。実績ある一ノ瀬が今後、会社に貢献することは、誰が見ても想像できるのに、現実は厳しい。

ドラマだからやさしい救いがあるわけじゃない。ドラマだから、突きつけることができるのだろう。

奇跡は起こらなかった。そして、私は泣いた。でも流した涙は哀しみの涙ではない気がする。

 

山内圭哉に救われる。

一ノ瀬と同じ課の安芸公介を演じた山内圭哉は、今もっとも注目するべき俳優のひとりだ。この作品でコンフィデンスアワード・ドラマ賞助演男優賞を受賞している。
『民王』での公安、『あさが来た』の番頭さん、そして今回の安芸さん。共通点見当たらない。でも見事にどの人物も私たちの記憶に残る名演技である。どの役も違和感なく、いやその人そのものだ。

安芸さんのやさしさ、歯の食いしばり方、悔し涙、すべてが心に温かい。クヨクヨもするしメソメソもする。でも誰かのために、あんなに踏ん張れるのは、本当に強い人間だからだ。

 

働いていると、追われることばかりだ。どこを向いて働いているのかわからなくなる。明らかに理不尽だと感じることにすら、反応できないこともある。壊れそうになっていることにすら、気付いていないかもしれない。

ドラマの世界は現実とは違うと言う人も多いだろうが、私みたいにブレブレの人間はドラマを観て襟を正すことが少なくない。ドラマを観て、奮い立ち、自分の正義を取り戻すことも「あり」なのだ。

 

中島裕翔に希望を見る。

最後に、主人公を演じた中島裕翔。『半沢直樹』しかり『デート』しかり、彼の清々しさはいい意味で反則だ。

登場人物の個性をしっかり生かしながら、ちゃんとキラキラした透明感を気持ちよく伝えられる貴重な俳優。あの年齢で「調和」の美しさや心地よさを、ごく自然に見せられるのは、驚くべきことである。

 

新入社員の彼らはもちろん、登場人物全員の変化に胸が高鳴った『HOPE』、奇跡は起こらなかったのに、そこには確かに希望があった。そのことが奇跡なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『予告犯』 究極のエンターテインメントのメッセージに涙する

映画を観ながら泣いたことはもちろんあるのだが、今回はふともらい泣きするとか、クライマックスで涙するとかいうものとは違った。号泣ではないが止まらない涙だった。

 

ネット社会が生む不条理とネット社会で浮上する可能性

この作品を少し前の私が見ていたら、今とは違う感想を抱いただろう。ここまで涙しなかったかもしれないし、それでも浮上はできるはずだと、頑張ればなんとなるんだと戸田恵梨香演じる吉野絵里香よりの考えを持ったと思う。しかし今、容易には変わらない寒々しい社会の現実を痛感することがある。大いにある。

 

毎日は本当に面倒だ。学校でも職場でも主婦の現場でも、見下しと嘲笑いが渦巻き、SNSで煽られ、個人の思惑は負の衣を何重もまとうことになる。

自らの羅針盤を腐らせて針はグラグラと動きが悪い。過労と寝不足の毎日はただ不快な感覚だけを残し、自分の不快な思いを抹消するために見下し の標的に不快指数をぶつけてしまう。そんなことをしても何も解決しないことを、なんの生産性も発展性もないことを、どこかで気づいているはずなのに。

二次的な疲弊が生まれることも、負の連鎖を拡大させるツールになることもわかっていながらSNSを手放せない。スパイラルである。

 

正規非正規の垣根を、崩壊寸前の自らをなんとか踏みとどめる術にすり替えている人間集団がゲイツのいた現場である。垣根を高くし、垣根の向こうの人間を嘲笑うことで、自分の存在価値をなんとか維持しているということだろう。

垣根のこちら側の人間が健全な価値観を維持するには、壊される前にそこから逃げるしかないのである。

頑張れるだけいい。ゲイツは刑事の吉野にそう言った。

ココロもカラダも壊れるまで打ちのめされる。踏ん張る気持ちがあっても、どうしようもない状況を強いる日常は現実なのだ。

 

 定休日が消滅し営業時間は延長するばかり。24時間稼働の社会は生活を便利にする一方、店舗運営、物流、交通、しくみを支えるシステム、何もかもがリンクして慢性的な労働力不足は必然で、余裕のないギリギリの状況が続く。労働環境の改善は、そこだけを切りぬいても解決しない。立ち上がり声をあげても、変わらないし、変えられない。社会は途方に暮れている。

 

エンターテインメントが突きつけるメッセージに泣くしかできなかった

 マンガ原作の映画やドラマが多く、そんなことでいいのかと物足りなさを感じていた。しかし、視点を変えればクォリティーの高いマンガが多いということで、そこをおさめれば、最近のドラマや映画をすんなり楽しむことはできる。

 

悪意の吹き溜まりとなる1部のネットにゾッとすることがある。シンブンシの予告に対し、彼らの姿を揶揄する吐き捨て言葉が流れる一方、「いや俺はわかるよ」と素直な声も届く。匿名性を悪用する者と、匿名性に救われる者、両方が確実に存在しているのだ。

ネット社会への警鐘。それとは別の彼らの真の目的。そして彼らの終着。

彼らを駆り立てたものに、共感できるという見方もできるし、ほかに方法があったはず…という見方できる。

しかしそこに生きる理由、強くなれる理由を彼らは見出した。何もそこまでの”そこ”から自らを解放することなく、突き進もうと決めた。そう決めた生き方について、良し悪しを言えないままの私がいる。

 

 

世の中のどこかに、等身大の4人はいる

物語はテンポよく展開する。

ネットという劇場型制裁も巧みだし、社会現象への即時性も臨場感がある。エンターテインメントらしい作品で素直に面白い。そのエンターテインメント作品が切実にメッセージを伝えきったのは、シンブンシ4人を演じた生田斗真鈴木亮平濱田岳荒川良々の演技があってこそである。メッセージの掘り下げにはもう少し時間が必要かもしれない。しかし彼らの演技はそれを十分にカバーしているし、観客を見事に引き付けた。社会の歪みについて考えた人は多いはずだ。

 

死を覚悟したときのノビタの震え。メタボの頬を伝う涙。海岸で見せるカンサイの笑顔。すべての流れを変えたゲイツの「とめないよ」。心ない言葉が氾濫するなか、静かに共感したネットカフェの店員。純粋無垢な笑顔で希望を見せ続けたヒョロ。こんなにいい演技をする俳優たちだったのだと、改めて感じる。こんなふうに考えさせてくれた作品に心から感謝したい。

 

 

 

 

 

 

 

テレビ画面が盛られすぎて、何を見てるのかわからない件

あの手この手でテレビの画面が盛られすぎ、何を見ているのかわからない今日この頃である。メインの画面に集中させてもらえず、視聴者は散漫にならざるを得ないかんじで、なんだか残念だ。

 

画面のゴチャゴチャにも限度がある

そもそも、各局で繰り広げられる画面盛り盛り合戦は、何を目的に繰り広げられているのだろう。

情報番組では画面下でツイッターが紹介され続け、夕方のドラマの再放送では、青だの赤だのをクリックせよと求められ、視聴率獲得クリック作戦展開中のようだ。あの手この手もここまで来ると、節操がない印象だ。

 

画面上の見出しもビジネスメールみたいに 【怒】とか【喜】とかやたらめったらつけているし、見出し文字が七色になったりキラキラ光ったり、流れ星のような曲線が消えたり現れたり、とにかく画面がやかましい。ゴチャゴチャで、デザイン性などあったものではない(ホームページもゴチャゴチャ)。

視聴率主義ではなく画面装飾主義になっているぞ。

 

しかし、なぜここまでという疑問がある。

内容に自信がない?

パソコンスキルを見せつけたい?

 

 

盛られているのは、文字だけではない

昨今のニュース番組、特に夕方はすでにニュース番組として成立していない。グルメだ、芸能だと何でもありの状態である。

事件を追うニュースや政局報道では、リズム隊中心の音楽が視聴者を煽る。ドラマ音とベース音がドドンド ドンドンと低音でリズムを刻み、なんだかドラマチックになっているのだ。音響さんの腕のみせどころなのかどうかはわからないが、事件に集中させてちょうだい、冷静に見せてちょうだいと、切に思ってしまう。未だ犯人捕まらずの場合もこのパターンである。そこ、演出しなくていいからと思うのだが、どうだろう。

「犯人の足取りを追う」ナレーションはちょっとおどろおどろしい声だし、「2週間ほど前から不審者の目撃情報はあった」のナレーションの後ろでは、やっぱり低音でリズムが刻まれるし。

きゃあ。もう静かにしてえ!

 

 

情報過多の時代、驚くことはまだある

朝の情報番組で、ネット上の傾向だの他局の報道だの新聞の報道だのから、いろいろ論じ合い「本当でしょうかね」とか「○○と信じたいところですが」などとコメントするが、そもそも、足を使ってなぜ取材しない?????

 

不思議を追加させていただくと、コメンテーターという肩書きもなんなんだ。今日に至るまで、コメンテーターとは何なの?ちょっと考えようと視聴者にずっと言われているはずだが、”誰でもコメンテーターの時代”は変化を見せない。

 なぜにコメントする立場なのか。専門領域なら然りであるが。

 

確かにインターネットは論じ合う風土を育成したと言える。しかしテレビはその手法に乗っかっているだけ、テレビ性が崩壊しただの盛り屋になっていて、信頼度は低下するばかりである。

 

”テレビ的=エンタメ的=盛り” を現場で今一度検証していただき、本来のテレビらしさを取り戻してほしい。取りあえず、画面が うざいぜのテレビになっていることに気づいていただきたいと思っている。

 

テレビ、何もかもダメじゃん とは思っていない。

ドラマガイドではありますが、『サラメシ』大好きです。