&風に吹かれてカシシエロ

ドラマのあれこれ。毎日のあれこれ。

『予告犯』 究極のエンターテインメントのメッセージに涙する

映画を観ながら泣いたことはもちろんあるのだが、今回はふともらい泣きするとか、クライマックスで涙するとかいうものとは違った。号泣ではないが止まらない涙だった。

 

ネット社会が生む不条理とネット社会で浮上する可能性

この作品を少し前の私が見ていたら、今とは違う感想を抱いただろう。ここまで涙しなかったかもしれないし、それでも浮上はできるはずだと、頑張ればなんとなるんだと戸田恵梨香演じる吉野絵里香よりの考えを持ったと思う。しかし今、容易には変わらない寒々しい社会の現実を痛感することがある。大いにある。

 

毎日は本当に面倒だ。学校でも職場でも主婦の現場でも、見下しと嘲笑いが渦巻き、SNSで煽られ、個人の思惑は負の衣を何重もまとうことになる。

自らの羅針盤を腐らせて針はグラグラと動きが悪い。過労と寝不足の毎日はただ不快な感覚だけを残し、自分の不快な思いを抹消するために見下し の標的に不快指数をぶつけてしまう。そんなことをしても何も解決しないことを、なんの生産性も発展性もないことを、どこかで気づいているはずなのに。

二次的な疲弊が生まれることも、負の連鎖を拡大させるツールになることもわかっていながらSNSを手放せない。スパイラルである。

 

正規非正規の垣根を、崩壊寸前の自らをなんとか踏みとどめる術にすり替えている人間集団がゲイツのいた現場である。垣根を高くし、垣根の向こうの人間を嘲笑うことで、自分の存在価値をなんとか維持しているということだろう。

垣根のこちら側の人間が健全な価値観を維持するには、壊される前にそこから逃げるしかないのである。

頑張れるだけいい。ゲイツは刑事の吉野にそう言った。

ココロもカラダも壊れるまで打ちのめされる。踏ん張る気持ちがあっても、どうしようもない状況を強いる日常は現実なのだ。

 

 定休日が消滅し営業時間は延長するばかり。24時間稼働の社会は生活を便利にする一方、店舗運営、物流、交通、しくみを支えるシステム、何もかもがリンクして慢性的な労働力不足は必然で、余裕のないギリギリの状況が続く。労働環境の改善は、そこだけを切りぬいても解決しない。立ち上がり声をあげても、変わらないし、変えられない。社会は途方に暮れている。

 

エンターテインメントが突きつけるメッセージに泣くしかできなかった

 マンガ原作の映画やドラマが多く、そんなことでいいのかと物足りなさを感じていた。しかし、視点を変えればクォリティーの高いマンガが多いということで、そこをおさめれば、最近のドラマや映画をすんなり楽しむことはできる。

 

悪意の吹き溜まりとなる1部のネットにゾッとすることがある。シンブンシの予告に対し、彼らの姿を揶揄する吐き捨て言葉が流れる一方、「いや俺はわかるよ」と素直な声も届く。匿名性を悪用する者と、匿名性に救われる者、両方が確実に存在しているのだ。

ネット社会への警鐘。それとは別の彼らの真の目的。そして彼らの終着。

彼らを駆り立てたものに、共感できるという見方もできるし、ほかに方法があったはず…という見方できる。

しかしそこに生きる理由、強くなれる理由を彼らは見出した。何もそこまでの”そこ”から自らを解放することなく、突き進もうと決めた。そう決めた生き方について、良し悪しを言えないままの私がいる。

 

 

世の中のどこかに、等身大の4人はいる

物語はテンポよく展開する。

ネットという劇場型制裁も巧みだし、社会現象への即時性も臨場感がある。エンターテインメントらしい作品で素直に面白い。そのエンターテインメント作品が切実にメッセージを伝えきったのは、シンブンシ4人を演じた生田斗真鈴木亮平濱田岳荒川良々の演技があってこそである。メッセージの掘り下げにはもう少し時間が必要かもしれない。しかし彼らの演技はそれを十分にカバーしているし、観客を見事に引き付けた。社会の歪みについて考えた人は多いはずだ。

 

死を覚悟したときのノビタの震え。メタボの頬を伝う涙。海岸で見せるカンサイの笑顔。すべての流れを変えたゲイツの「とめないよ」。心ない言葉が氾濫するなか、静かに共感したネットカフェの店員。純粋無垢な笑顔で希望を見せ続けたヒョロ。こんなにいい演技をする俳優たちだったのだと、改めて感じる。こんなふうに考えさせてくれた作品に心から感謝したい。